右足にぐっと力をかけて影がこちらを振り返った瞬間に屋根から急降下する。風がひゅんと耳元で鳴る。影はその音に驚いたのかこちらが手をかける前に体を崩した。その所為で牙が影の体に食い込まず空を裂く。
「チッ!」
悲鳴が上がれば周囲が気づいて厄介なことになる。そうなる前に絞め殺してしまえ。今はただ、獲物に早く喰らいつきたくて地面に倒れた影に手を伸ばした。
「嫌ああぁっ!!」
「しまった!」
見誤った………!光源の無い暗闇がそうさせたか何か口に入れなければならないという危機感がそうさせたか仕留めたのは人間だ。 人間に姿を見られまいと慌てて踵を返す。
「犬神!」
よく知った声が響いた。瞬間、体が硬直する。
振り向かずとも分かる気配。どうしてよく知っている気配が分からなかったのかという思いと未遂とはいえ殺そうとしてしまった背徳感が入り混じって後ろを振り向けない。
「………犬神なんでしょ?」
疑問を残しつつも確信を得た声が低く脳に響く。着物の裾を引っ張られて硬直していた己の体が反転する。
雲に覆われていた月が少しずつ顔だして視界が戻ってきた。ぼんやりとした明かりに照らされたのは紛れも無く主様だった。自分を殺そうとしたのは『犬神』だということを確信した瞬間、黒い瞳に瞳孔が揺れて、瞬く間にその顔から血の気が引いていった。その顔が目の前で恐怖に染まっていくのにどうしようもできない。そうだ、伝えなければ。怪は他の生き物から霊質をとらねば消えてしまう故に仕方なく動物を殺したこと。人間を、まして主様を手にかける意思は全くなかったこと。そして、従属は決して主に逆らわぬことを。
「主様………。どうか聞いてくだされ。現世の主様には酷と思うて話していなかったが、怪は生き物の霊質を食べる。人間の食料も口にはできるが生きながらえる為にはどうしても何 かを殺さねばならないのだ。始めは小動物を食べていたのだがそれではこの体を維持できなんだ。人間を、主様を襲うつもりは無かった!闇夜の所為で違えたのだ。分ってくだされ………食わねば某は消えてしまいまする………」
「へぇ、と言うことは、最近この辺りで起こった動物殺しの犯人は犬神だったのね。 じゃあ、もし襲ったのが私じゃなくて他の知らない人間だったら食べてたんじゃないの?違う?ううん、違わないでしょ。空腹だもんね?食べなきゃしんじゃうんでしょ?」
「っ、」
「ほら、やっぱり」
「待ってくだされ、」
「触らないでよ!この人殺し!!」
「!」
伸ばした手が大きな音を立てて叩き落とされた。しかし手に痛みは感じない。それよりも心臓が痛くてしゃがみ込んでしまいそうになる。
歪んだ視界の先にぽたりと水滴がひとつ、染みをつくった。


曇天

(08.08.19)