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「犬神。憑き物の一種。一般に犬の霊で人に憑いて様々な祟りをなすとされる」 辞典の憑き物、祟りと印刷された文字をなぞればすぐに異論がとんだ。 「人間に悪さをして楽しむ輩もいるが某はせぬ。第一、主様もそれを命じたことは無い」 昨日の騒ぎの後、お風呂があいたと家族が呼びに来たが扉が開いた瞬間に犬神の姿が消えた。背中から体内に何かが入った感覚がして恐る恐る問いかけたら体の奥から男の声がした。どうやら自分のみに聞こえるらしく犬神曰く、これが『憑依状態』と言うらしい。 獣染みた瞳と視線が交わると、炎に似た尾が揺れて笑顔を返された。 「さあ、そろそろ湯殿に参りましょう。某が沸かしまする」 促されるまま脱衣所までやって来る。 「ここでいいですから。現代には勝手にお風呂を作ってくれる便利な機械があるんです。脱ぐので出ててください」 扉を閉めて沈黙。犬神が入ってこないことを確認して服を脱ぐ。お風呂のドアを開けると入浴剤のいい匂いがした。 「疲れた」 一通り洗って湯船につかる。憑き物といえど姿は犬男だ。そこらの男性と暮らすより神経が張る。強張った肩を湯に沈ませて揉んでやると心持軽くなった。緊張が緩むと一気に眠気が襲ってくる。湯船の気持ちよさも手伝ってまぶたは完全に下りる寸前だ。バスタブの縁を枕代わりにして睡魔を歓迎すると暗闇に吸い込まれるように意識が無くなった。 「はくしゅっ」 自分のくしゃみで眼が覚めた。湯船がぬるくなっているのに驚いて慌ててお湯を足す。私は大分長く眠っていたみたい。どぼどぼ音を立てて湯が足されて蛇口周辺からほんわり温まっていく。湯がぬるくなるのにどれ位の時間がかかるのだろう。もう1時間、いや2時間は入浴していたのかもしれない。風邪を引かない程度体が温まった辺りで切り上げて寝巻きに着替える。頭に巻いていたタオルは湿気を吸いすぎて気持ち悪くなったので脱衣籠に放り投げてドライヤーだけ持って出た。 「湯加減はいかがでしたかな。随分湯殿を楽しんだようで」 扉を開けると足を丁寧に折り曲げて姿勢を正し座っている犬神がいた。まさに番犬を思わせる。「よっ」という掛け声で立ち上がろうとするが彼の足はしっかり床を踏みしめられずよろめいた。 「いや、久方ぶりの正座はどうも足にきていけませぬな」 たはは、と恥ずかしそうに笑う犬神は眉をハの字にして人差し指でこめかみを掻いた。 家族に犬神の存在がバレたら面倒だ。ドライヤーの音は聞かれたくない会話をかき消してくれて丁度いい。 乾いた熱風が髪の水分を奪ってさらさらと手から落ちていく。 「あの、凝視されると生活しずらいんですが」 隣に控えている男の視線は昨日から常に自分に向けられている。それは悪い視線ではないけれど見張られているようでいい気分ではない。乾いた髪をなでながら櫛を探していると犬神が後ろに回ってきて髪を一房掬い上げて懐から取り出した櫛で丁寧に解かし始めた。櫛を借りて自分で梳かそうとしたけれど、あまりににこにこ嬉しそうにするので髪を触られるのは緊張するけれど黙ってされるがままになる。 「貴女の所作が昔と変わらぬので懐かしんでおったのです」 顔は見えないけれど彼の声は温かみを含んでいて今、どんな表情をしているのかが想像できた。それがとても懐かしいように思えて記憶の糸を手繰り寄せようとするが叶わない。けれども確かに私は知っている、気がする。
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