空に飽和していた雨粒がようやく落ちてきた。空が泣いている。


記憶の粒がしとしとと 参


肺一杯に煙を吸って息が苦しい。だが、どうやら某は命を永らえてしまったようだ。火の中で死ぬことができればよかったのに。
崩壊した建物の中、残されたのは煤けた犬と小さな刀。主様はもういない。主様が大切にしていたこの懐刀。あの時のことを思い出した。
2人で蔵にこっそり侵入したときのことだ。古い道具や書物が並ぶ暗い室内。1冊の書物を開いて彼女が言った。
「犬も神様になれるんだって。犬神っていうのよ。普通の犬でも神様になれるのね」
そこで主様は口をつぐんだ。某はこの言葉を聞いたとき、犬神になりたいと心から思った。犬は人間よりも早く死ぬと聞いた。某は主様を守ることが生きがいだ。犬神になって長く生きられるのならば、どんな苦しみを味わってもいい。犬神になりたい。
だが、紙をめくった主様はその先を教えてくれなかった。口を噤んだまま書物に目を通して閉じた。けれど、某はこっそりとその部分を覚えていた。今もはっきりと記憶している。



「刀ばっか見つめてさ、あんた死ぬつもりかい?」
番傘を差して簡素な着物を着た男がいつのまにか立っていた。裾が煤で汚れるのも気にせずこちらへ歩いてくる。
「何年かぶりに帰ってきたと思ったらこんなことになっちゃってさ」
そう言った男は、「俺は座敷童子ってんだ」と笑った。某は返事を返さない。しかし、座敷童子は気にせずに続ける。
「あんたがそれで幸せになるってんなら手伝ってやってもいいよ。大切な人に会えない辛さは俺も知ってるから。 でもさ、犬神になるのを手伝う代わりに約束してくれよ、天狗には復讐に行かないって。あんたの大切な人はまた人間に生まれ変わるよ。大切な人は天狗と約束を交わしたんだろ?魂を半分やるって。約束を違えちゃいけねぇな。」
某は返事を返さない。
「そんな顔すんなよ。大丈夫さ、魂の半分はまた生まれ変わる。大切ならそれまで待てるだろ。もし、犬神になったあんたが天狗のところに乗り込んだところで怒りを買って魂半分どころか全部食われるぜ?あんたがほんとに大切に思ってんなら待ちなよ。次に会えるのは10年・・・100年・・・いや、もっと先かもしれないけどさ」
某は返事を返せない。自分に力のないことが不甲斐なくて仕方ないのだ。
「ん、納得したかい?」
刀を差し出すと座敷童子は懐に仕舞った。
「確かに承った。招福招来っと!あんたとあんたの大切な人のために祈っとくよ」



それから丁度一週間。焼け焦げた神社の隅で、土に埋った犬の首なしの体と朱色の懐刀が見つかった。

(08.12.30)