こんな感情 知らなければよかったのに。



城よりは遠く、しかし確実に人間の断末魔が聞こえる距離にまで攻め込まれてしまった。敵は連合軍の主戦力のほぼ全てを上田城攻めに投入した。応戦をしているものの、この数の圧倒的不利に希望を見出すのは難しい。もってあと1日、早ければ半日後にはこの城内は惨劇と化すだろう。もはや絶望的なのだ。



城の最奥の壁、その隅の小さな取っ手を引く。すると、キリキリと歯車が回転する音がして壁が通路に組み変わる。城主とごく一部だけしか存在を知らない隠し部屋なのだ。狭い通路の左右にはおおよそ語ることのできない内容の書物が積み上げられている。裏の歴史というやつだ。その突き当たりの広まったところに彼女はいた。
ちゃん」
呼びかけても返事はない。そうだろう、俺が目の覚めないように通常の倍の睡眠薬を使ったのだから。すやすやと寝息を立てている顔が穏やかで、見ていると現実を忘れそうになる。
ちゃん」



そうだ、この子は現実離れした子だった。
ある村に奇怪な人間がいると耳にしたのは半年くらい前だっただろうか。なんでもそいつは未来のことを予言する力を持っているらしいという噂だった。初めは気にも留めなかったが噂が噂を呼び他国にも広がった。こうなれば放ってはおけない。万が一、予言の力が本当でその人間を他の軍に捕獲、戦力に投入されたならば由々しき事態になる。



兵が連れてきたのはただの若い女だった。
ただ、気になるところといえばその格好で、異国のものと思われる下穿きに薄い木綿のような上着。履物は紐で締め上げるような変わったものだった。一瞬、奥州の間者かとも疑ったが、だいたい間者にしては目立ちすぎると直ぐに疑惑は消える。どこぞの忍とも疑ったが、ぎゅっと口を引き結んで怯えている姿を見て考えを打ち消す。間者でもない。忍びでもない。じゃあ一体何者なのだろうか。
「顔、上げな。安心していいよ。拷問したりしない」
そう約束すると僅かに視線を上げる。
「聞かせて欲しいね。アンタが何者なのか」
暫く沈黙が続いたが「信じていただけないとは思いますが、これが真実です」と前置きをして話始めた。
それは「別世界から来た」だとか「からくりの中に入ってしまった」だとか訳の分からない話ばかり。予言の力においては「未来の知識を教えただけ」だと言う。確かに未来の知識とやらは画期的なものばかりですごく驚かされたけれど。



「ねぇ、ここに住んでみる?アンタ行き場なんてないでしょ。ここを家だと思って暫く住んだらいい」
保護という名目の監視の意味を隠して言った言葉だったけれど。
その瞬間の彼女の瞳が。
海に湛えた光のように瞬いて、大粒の雫が零れたから。
その瞳がどうしようもなく純粋で魅入ってしまったんだ。嗚咽を上げて泣き出すのを黙って、そして疲れて泣き止むまでずっと見ていた。独眼竜あたりに「傍に行って慰めろよ」と言われそうだと思ったけどあまりにも彼女が純粋で穢れが無くて、人を殺してきた自分の手で触ると穢れてしまう気がして触れることすらできなかった。
「あれからもう半年か」
このきれいなものが触れられずとも傍にあることがどんなに嬉しかったか。
あの平穏で暖かい日々が続けばいいとどんなに願ったことか。
「それも今日でおしまいだ」
手甲を外して小さな体に跨る。
このきれいなものが他の人間の手に渡る前にこの手でおしまいにしてしまおう。どうせ自分も直ぐに死ぬのだ。後に悔やむことはない。
そっと白い首に両手をかけるとじわりと温もりが伝わってくる。自分の腕から体中に彼女の温もりがうつったようで目頭が熱くなる。ああ、戸惑えば自分を苦しめるだけだ。一思いにやってしまおう。彼女も苦しまないようにありったけの力を込めて。
「さよなら、ちゃん」
両手に力を込めた瞬間に。



「佐助」



自分の好きで好きでたまらない子のか細い声がした。




この恋が幻ならば、






The first anniversary・・・鞠子へ
(08.08.04)